阿島傘について
阿島傘(ajima-gasa)とは
阿島傘とは長野県の南部、喬木村(たかぎむら)の阿島地区を中心に江戸時代から作られ続けている和傘です。
発祥は江戸時代中期(元文年間、1737年頃)に阿島を拠点としていた知久氏が管理する浪合の関所(現阿智村)を通り掛かった旅人が腹痛に苦しんでいたところ、関所役人が介抱し、回復した旅人がお礼として傘作りを教えたとされています。任を終えた役人が阿島に帰り、その技術を伝え、薄給だった下級武士の間で内職として広まりました。
阿島周辺では材料となる良質な竹や和紙、渋柿などが生産されていたため、やがて武士だけでなく村民も傘作りを行うようになりました。和傘の中でも普段使いの番傘が中心で、明治40年には年間30万本もの傘が生産される一大産業となりました。100軒以上の傘製造場ができ、畑や石垣、水路に千本以上の傘が干され傘の村として広く知られましたが、洋傘の普及に押され次第に衰退していき、昭和末期には1軒だけになってしまいました。
その1軒残った「菅沼商店」に師事し、傘作りを学んだ職人が阿島傘一凛を開きました。
番傘とは
番傘は和傘の一種です。和傘とは中国から伝わった絹張の「蓋(きぬがさ)」から発展したもので、竹骨に和紙を張って作られ江戸時代に普及しました。洋傘に比べて骨の数が多く、傘を閉じた際に内側に被膜が畳まれる点が特徴です。
和傘の中にも様々な種類がありますが、雨具として使う和傘は主に蛇の目傘と番傘の2種類があります。
蛇の目傘は細身で木製の柄に籐が巻かれており、内側の小骨に糸で装飾がされています。蛇の目傘は蛇の目模様(同心円を重ねた模様)から名付けられていますが、蛇の目模様以外にも様々なデザインがあり、華やかで嫁入り道具にもよく用いられました。
一方、番傘は全体的に太めで柄は竹製で、白一色で張ったようなシンプルなデザインが多く普段使い用の傘です。名前の由来は、江戸時代に大黒屋で作られた大黒傘に大黒天の印(判)が押されていたことから判傘、または商家の貸し傘に番号が振られていたことから番傘などの説があります。
阿島傘は白張りの番傘が主流でした。そのため阿島傘一凛でも伝統的な番傘を作り続けつつ、新しい魅力として今の時代にも使える様々なデザインの番傘を作っています。
番傘作りの工程
傘作りの工程は何段階にもわたり、古くは細分化されて分業で作っていましたが、業者の減った今では、多くの工程を一人の職人が担っています。
阿島傘一凛では以下のような工程で傘作りを行っており、全て手作業で非常に時間が掛かります。そのため納入まで時間を頂きますこと、何卒ご了承ください。
- 和紙を染める糊、染料、色止めを順に塗る
- 和紙の切り出し型紙に沿って切るほか、切り絵をしたり張り合わせて絵柄をつける
- 大矯め親骨を加熱して木枠で曲げる
- 骨つなぎ手元ろくろに小骨をつなぐ→頭ろくろに親骨をつなぐ→小骨と親骨をつなぐ
- 手矯め
親骨を加熱して手で曲げる
- 間割り軒糸を通してから骨間を均等に広げる
- 軒づけ
軒糸を挟むように軒紙を張る
- 中置づけ
中節部分に中置を張る
- 大張り
親骨の上にメインとなる紙を張る
- 天井張り
頭ろくろ周辺に何重にも紙を張る
- 手元づけ
内側の小骨に紙を張る
- 文字入れ
大張りに文字や絵を描く
- 白しはん
紙に折り目を付けて畳んだ後、輪で絞めて形を整える
- 頭しぼり
頭ろくろを湯で絞って形を整える
- 毛伏せ
骨上に糊を塗って毛羽立ちを抑える
- 赤塗り
骨上にベンガラを塗る
- 油引き
防水のための油を塗って天日で数日乾燥させる
- 油しはん
止め釘を打ってから傘を畳んで再び輪で絞めて形を整える
- 仕上げ
頭紙を付けて完成
雨傘と日傘の違い
和傘は和紙で作られているため、そのままですと水に濡れると破れてしまいます。そのため雨傘にするために油が引かれています。油を引くことで防水性が生まれ、また紙に透明感が出ますが、その反面、経年による黄変や紙の劣化がより強く発生します。
雨傘としてご使用になる場合は油を引いた傘をお使いください。油を引いていない日傘を雨に使用すると破れます。
一方、日傘としてご使用になる場合は油を引かない傘をお使いください。油を引いた雨傘を日傘として使うと劣化を早めてしまいますし、日光を透過してしまいます。
室内に傘を飾る場合は雨傘と日傘のどちらも使えます。油を引いた方が光を透かしやすくなりますが、油の臭いや黄変が気になる場合は油を引かない傘にしてください。